自由律俳句の現代化
自由律俳句。
巨頭ふたり(尾崎放哉、種田山頭火)が世に知られた後、活動家は存在するが既存の総合誌には上がってこない。内在律と言ってもそれは、突発的な詩的衝動の発露であり、一般化しえない。むしろ、音数律の面から一・二・三音字の組み合わせという日本語の特性に沿って、作句しながら想定してゆくという方法によるのがいいように思われる。
漢語熟語に依存しないことも滑らかな口誦性を担保することにつながるようである。ま、これは定型の俳句の場合も同じことなのだが、漢語、熟語、連語と言うのは無機質、玲瓏というイメージに支配されがちである。
「自由律俳句」という定義、名称ではなく、「自由音数律 雑排」略して「雑排」という言い方で、ゆくゆくは挑戦してみようかと考えている。
そのためにも、川柳をはじめとして、口語文芸ー無季・有季口語俳句、口語短歌、古体詩形ー片歌、旋頭歌、仏足石歌の口語作歌という修練をするべきだと考えている。もちろん、文語・歴史的仮名遣いの俳句・短歌の実作の手は抜かない。これに対抗するのは、ふいに訪れる退屈の虫どもである。歴史的伝統の習得もさることながら、これは精神の鍛錬であり安易な道は選ぶべきではない。
詩の実作にかかわったのは、大学一年、十八歳の時、吟詠の師匠より漢詩おもに唐詩の絶句以来である。二十年ほどは絶句と律詩ばかり作り近年は、宋詞を少し手慰みに作っていたぐらいで、二年前(2012年)9月に一念発起して短歌と俳句を作り始めた。
暇つぶし以外の何物でもなかったが、結社や同人誌の他者の作品に学びつつ爪の先ほどは動けたかなと思っている。最低七年から十年は「小僧さん」だと思っている。若い年齢と同じようには飛躍できない分は積み重ねる時間でカバーせねばと思いを強くしている。可視化できない根っこの髭を、万本も百万本も伸ばしていかない事には地上の樹を支えられないだろう。