[兵站戦線2673]

homefrontとは「銃後」という意味で、あえていえば「兵站」と云いましょうか。小島祝平氏曰く、川柳は正直に詠む。ええ恰好しよ、思うのは川柳やない。川柳のいのちは、真実(ほんま)や、ほんまのところにユーモアが出る。うそはあかん。短歌ブログ;http://ameblo.jp/oyajipoem 俳句ブログ;http://blog.livedoor.jp/kigai_bow/

くちばしをいれて勝手に死んでゆく

今どきの保守派諸姉兄が、古今和歌集に関しての愚評愚論の正岡子規和辻哲郎の妄想癖、平板趣味のような華氏百度で沸騰させるような門外漢とは思いたくありません。保守とは既存のものあるいは既説を〈肯定〉するだけのあんぽんたんではないはずだ。なにがなんでも〈否定〉すれば左派ということでもないように。古今和歌集の否定は、万葉集の称揚と軌を一にして連動しており、藤原定家の一説が賀茂真淵国学に敷衍し、子規の安直につながり爆発した。それは国粋主義の風潮に引火し万葉集一辺倒になってしまった。しかるに、古代日本が国家という體を成し、その初めての勅撰の詞華集が古今和歌集である。もういい加減に、古代幻想はやめにしよう。根柢的な見直しの気風を興し、古今和歌集を再評価するべき時期が来ていると檄を飛ばしたい。

 

正岡子規の俳句、短歌の実作は、単なる洒落の産物なのか?そう思いたくはないが、古今集批判の舌端には「洒落にもならぬ」と、漏らしている。そこにみえるのは、洒落であったのにという含みであるという小松英雄氏の指摘は面白い。私はおのれの実作が子規からの流れにあることを忌まわしく思う。

 

しかし、川柳は子規ではなく、井上剣花坊、阪井久良伎による狂句からの転換であることに救われる思いがある。子規が攻撃すべきだったのは江戸文芸であり、さかのぼっては古今集ではなく、新古今集ではなかったろうか? 古今集の豊饒さは万葉集の考古学的豊穣さとは質が違うと思える。

 

くちばしをい入れて勝手に死んでゆく

 

 

 

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